愛から生まれた、新生児です

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理工学部4年生のメンバーによるACF礼拝での証詞です。

 

おはようございます。今日この場で証詞ができることを感謝しています。クリスマスまであと1週間となりました。クリスマスはこの世界の創造主であられる神様が私たちのために遣わしてくださったイエスキリストがお生まれになった日です。今日は、私と神様、そしてイエス様との出会いと、神様の愛について私の経験を交えながらお話ししたいと思います。

まずこの証詞題を見て、皆さんはどのように思われたでしょうか?中には「愛から生まれたってどういうこと?」、「あなたが新生児なわけがないでしょ」と思われた方がいるかもしれません。しかし、この新生児は少し意味が違うのです。ここでいう新生児であるとは、洗礼を受けたてであるという意味です。洗礼を受けるというのは、「神の家族の中に新しく生まれる」という表現がされます。この表現に基づくと、約2ヶ月前に洗礼を受けた私は0歳2ヶ月の赤ん坊なのです。ちなみにですが、私はクリスチャンホームに生まれたため、小さい頃から両親に連れられて教会に行っていました。すなわち、神様との接点は昔からあったわけです。ではなぜ私がこのタイミングで洗礼を受けるに至ったのか、経緯を少しお話ししたいと思います。

私は小学生の頃、クラスメイトの男子ほぼ全員から同時にイジメを受けました。とても辛かったですが、私は「聖書に書いてある通り、神様がきっと助けてくれる!」そう思ってひどく落ち込むことはありませんでした。なぜなら、毎週のように教会で「神様はとても優しいんだよ〜、神様はいつも私たちを見守って、愛してくれているんだよ〜」などという話をたくさん聞いていたからです。しかしイジメが止むことはなく、次第に男子だけでなく女子からも、さらには隣のクラスの人からもイジメを受けるようになりました。そこで当時の私は思いました、「なんだよ、神様が助けてくれると思っていたのに、ダメじゃん。もう信じてなんかいられない、やーめた!」これを機に、神様のことを考えず、意識もせずに生きるようになってしまいました。中学、高校、大学1,2 年はずっと、そのような状態で生きていました。

しかし、3年生の春から全国に展開しているキリスト者学生会(KGK)の活動に参加し始めたのがきっかけで、その活動の一環として同年夏に東日本大震災の被災地である福島県いわき市にボランティアに行きました。訪れた先の教会の牧師先生から、「震災を通して神様は教会に、そしてそこに通う私たちに何を語っておられるのか」というお話をうかがいました。その話を通して私は「神様はこの私を愛して、必要としてくださっている」というメッセージを受け取りました。辛いことがあって、それを何も悪いことしていない神様のせいにして勝手に離れ、その状態でずっと生きてきたこんな私を愛して、必要としてくれているのか…!と感動したのです。これがきっかけで私は信仰を持つようになり、約1年間にわたる聖書とクリスチャン生活に関する学びを経て、洗礼を受けるに至りました。

少し大袈裟かもしれませんが、例えば、友人が辛い思いをしていて、その友人に自分は何もしていないのにいきなり「お前のせいだ!」と言われて翌日から口を聞かれなくなった、なんてことがあったとしたらどう思うでしょうか。おそらく誰もが「もうそんな奴とは話したくもない」と思ってしまうのではないかと思います。しかし、聖書の神様は違います。「そんな奴とはもう話したくもない」ではなく、本日の聖書箇所にあるように「私の目にはあなたは高価で尊い、私はあなたを愛している」と言って下さるのです。私はその愛によって神様のもとに引き戻されたのだと確信しています。ゆえに私は「愛から生まれた新生児」なのです。

今日のこの証詞と、この後の賛美を通して皆さんにお伝えしたいこと、それは「神様はいつも、どんな時でも私たち一人一人を愛してくださっている」ということです。本日の聖書箇所をもう一度読みたいと思います。「私の目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している。」仮に他人から見下されたとしても、神様にとっては一人一人が価値あるもので、尊いのです。他人から愛されていないと感じてしまうときでも、神様は愛してくださっているのです。この大きな愛をぜひ覚えていていただきたいと思います。そして私も、この愛を忘れることなく生きていきたいと思います。

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