ACF礼拝

TAKUYA∞に教えてあげたい

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社会情報学部4年生のメンバーによるACF礼拝での証詞です。

 

みなさん、今日の証詞題を聞いて「たくやって誰だよ?」って思った方がきっといると思います。みなさんお手元の週報をご覧ください。たくやの綴りがローマ字でさらに「∞」マークがついています。このたくやさんは有名バンドUverWorldのボーカルをしている人です。UverWorldのこと知ってるよ、という人いますか? 僕も何曲か彼らの曲を聴くんですけど、その中で1つ印象に残っている歌を紹介したいと思います。

彼らの作品の中に「awayokuba-斬る」という曲があります。その曲は最初の歌詞がこう始まります。

「愛。口先で簡単に言えるけど、究極の愛の姿ってどんなんだろう?」

「究極の愛」。みなさん今までそんなこと考えたことありますか?この後の歌詞では恋愛についての思いが綴られて行きますが、究極の愛とは果たして恋愛から見出せるものなのでしょうか。

「究極の愛の姿」。多分一生かけても答えが見出せないようなものなのかもしれません。でも実は、この問いには答えがあるんですよ。その答えは聖書の中にあります。今日の聖書箇所をもう一度お読みします。

イザヤ書43章4節
「わたしの目にはあなたは価高く、貴く
わたしはあなたを愛し
あなたの身代わりとして人を与え
国々をあなたの魂の代わりとする。」

そう、神様はあなたを愛してくださっているんです。僕らが悪い行いをしたとしても、裏切ったとしても、神様は僕らのことを愛しています。みなさんそんなことできますか?裏切られても、拒まれても、何も見返りがなくても、愛せますか?神様は僕たちのことを愛しています。今あなたが神様に背を向けていたとしても愛してくれています。

例えば、1万円札があったとします。もちろん1万円札には1万円の価値がありますよね。これを踏みつけたってその価値は変わりません。くしゃくしゃにしたって価値は変わりません。最悪切断しても銀行に行けば同じ価値のものと代えてもらえます。神様はどんな僕たちでも変わらず愛してくれているんです。

僕たちは皆完璧に善人とは言えません。誰しも罪があるはずです。聖書は言っています。その罪を抱えた人は天国に行くことはできません。罪がある僕たちは本来天国に行けないんです。僕たちは本来罪があるから、天国には行けないんです。でも神様は僕たちを愛してくれているから助けたいって思うわけです。じゃあどうするか。神様は僕たちの罪を代わりに負ってくださいました。今読んだ聖書箇所に「あなたの身代わりとして人を与え」とあります。この身代わりとして与えられた人こそイエス・キリストです。イエス・キリストは十字架の上で身代わりとなって死んでくださいました。それは僕たちの罪を代わりに背負ってくれたことを意味します。代わりに罰を受けてくれたんです。それほどまでに神様は僕たちを愛してくださっているんです。命に代えてでも私たちを救う、そこに「究極の愛の姿」が見出せます。

少し僕自身の話をします。僕はかつて引きこもりでした。勉強や学校生活において大きなつまずきを覚えて、現実から逃げるように引きこもりました。鬱になって、自分に価値が見出せなくなりました。そんな中でも一つ、日課として続けていたことがありました。聖書を一日一章読むことです。僕は両親がクリスチャンで、幼い頃から教会に行っていました。引きこっている期間は外に出ることはなかったけれど、それでも習慣として、あとは特にやることもなかったので聖書を読んでいました。そんな僕はある日この聖書箇所に出会いました。

「わたしの目にはあなたは価高く、貴く わたしはあなたを愛し」ている。

昔から聞いて来た神様にふと立ち帰りました。自分は愛されているんだ。価値がないと思っていた自分を、価値があって貴いとまで言ってくれる存在があるんだ。涙を流しながら、部屋の中でこの箇所を復唱したことを覚えています。僕はこの究極の愛を受け取って、変わりました。

この中にはキリスト教ってよくわからないという人もいると思います。キリ概の授業がある度に聖書重くね?とか思っているかもしれません。でもキリスト教における一番大切なことってそんな複雑なことでもないんです。神様があなたを愛していること。「究極の愛」で愛してくれていること。それが一番大切なことなんです。

もしTAKUYA∞に会うことがあったら伝えておいてください。究極の愛の姿って聖書の中にあるよって。

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