ACF礼拝

私の計画、神様の計画

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総合文化政策学部2年生のメンバーによるACF礼拝での証詞です。

 

今日このようにして、皆さんの前で証詞する機会が与えられたことを嬉しく思います。証詞とは神様からいただいた恵みの体験のことです。今日は私の神様との歩みについてお話しさせていただきます。

私は母がクリスチャンで、お腹の中にいる時から教会に通っていました。沢山の友達やお兄さんお姉さんに囲まれて楽しく教会生活を送り、神様の存在を1㎜も疑うことなく信じ中学1年生の時に洗礼を受けました。私は比較的まじめなクリスチャンだったと思います。しかしそんな私は高校生の時に、神様を信じられなくなりクリスチャンをやめました。

私は4歳の時からクラシックピアノを習っています。本格的にやっていたので、有名な先生に指導を受けながら、コンクールで良い成績をとるために、毎日何時間も練習して、休みの日には10時間以上弾いたりもしました。ピアノはまさに、私の人生の中心でした。クリスチャンは才能のことを神様からいただいた「賜物」と表現します。私のことを知っているクリスチャンの人は皆、「ののちゃんの賜物はピアノだね。」と口を揃えて言いましたし、私自身もそう思っていました。

中学校3年生になり進路を考える時、私は自分の人生の計画を立てました。当時私は、とあるピアノコンクールの全国大会を通過し、アジア大会への出場が決まっていました。私はそのコンクールの結果次第で進路を決めようと思い、神様にお祈りしました。真剣に祈り、練習も積み重ねて臨んだコンクールで、私は良い結果を残すことができました。そしてこの結果を通して神様が音楽の道を示してくれたのだと信じて、期待を抱いて音楽大学付属の高校に進学しました。

ところが高校1年の冬、私はパニック障害になり外に出るのも困難な状況に陥り、学校を休学せざるを得なくなりました。電車、人、日常に溢れる音という音が怖くなり、耳栓なしでは生活できなくなってしまいました。音が怖いので人と会話することもなくなりました。そんな状態ですから、もちろんピアノなんて弾けませんでした。それでも弾きたくて何度も何度もトライしましたが、ピアノの蓋を開けることすら出来ませんでした。

真剣に祈って叶えられて、やっと音楽高校に来たのに、なぜピアノが弾けなくなってしまうのか。ピアノだけじゃなくて日常生活まで奪い取られてしまうのか。私が今までピアノに掛けてきた時間と努力は何だったのか。こんな結末が待っているのに、どうして神様はあの時期待をもたせたのか。様々な感情が溢れてきて、怒り狂いました。神様は嘘つきだ、クリスチャンなんてやめてやる、そう思いました。

やがてその怒りすらも感じなくなり、私の心の中から神様の存在は消えました。毎日家の中で寝ているだけだったので、もはや曜日感覚はなく、「日曜日には教会に行く」という、かつての私にとって当たり前だったことすら忘れ去りました。

そんな私が何故今クリスチャンとしてここに立っているのか。それは、その辛く苦しい経験も神様が私のために立てた計画の大切な一部だと気付かされたからです。

休学して体調もある程度良くなった頃、母を通して教会の牧師先生からカンボジアミッショントリップに誘われました。カンボジアミッショントリップは、私が通っている教会が中心となって行なっている活動で、カンボジアの学校に行って英語や日本語を教えたり聖書のお話を教えたりしながら子供たちと交流するというものです。

その時の私は、”もうクリスチャンはやめたから”と意識的に教会から離れていました。しかし不思議なことにカンボジアミッショントリップには行ってみようかな、と思い参加することにしました。行ってみると、音はまだ少し怖いし、ピアノは弾けないから賛美は歌うだけ。それが精一杯でしたが、カンボジアの子供たちと遊んだり賛美している中で、生き生きとしている自分に気がつきました。

ある日の夜、ミーティングの時に、宣教師の先生がその日見た夢の話をしました。A君がギターを弾いて、私がピアノを弾いて、みんなで賛美した、という内容でした。私はそれを聞いて涙が止まりませんでした。私にとってピアノに関することは一番触れて欲しくないことで、家族でさえ触れないタブーワードでした。宣教師の先生はそのことを知っていました。それなのに何故、何も知らないみんなの前でそんな夢の話をするのか、と悲しくなり泣きまくりました。その日は話を聞いてもらってなんとか落ち着き、祈ってもらって寝ました。

その次の次の日、問題が起きました。それまでギターで賛美をリードしてくれていたA君が熱中症で寝込んでしまったのです。誰も賛美をリードする人がいなくなってしまいみんな焦りました。その時、私は不思議と、「今なら弾けるかもしれない」と思いました。弾けなくなってから1年半、一度も開けることのできなかったピアノの蓋を開き、勇気を出してちょこっと弾いてみる。「あ、弾ける。」そう思いました。本当に簡単な和音だけで、とんでもなく下手だったけど、私はまたピアノが弾けるようになったのです。私のもとにピアノと神様が戻ってきた瞬間でした。それは、今まで奏でてきたどんなに上手くいった演奏よりも楽しくて喜びに満ち溢れていました。その時気がつきました。「ああ、神様はこれを教えるために私に試練を与えたんだ。」と。私は今まで自分勝手にピアノの技術向上ばかりを求めてきたけど、神様が私に求めているピアノはそういうものじゃないと気づかされました。聖書の詩編119編71節に「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたの掟を学びました」とあります。私はまさにこれを体験しました。こうして私はまた神様を信じる者へと変えられたのです。

その後私はこの青山学院大学に導かれました。全国キリスト者推薦で入学し、現在は推薦会エクレシアに所属しています。そして青山キリスト教学生会(ACF)に所属し、学内の沢山のキリスト教活動に関わらせていただいています。火曜日の夕方にあるコンテンポラリー夕礼拝ではピアノを弾かせていただいたり、ゴスペルシンガーの塩谷達也さんからコンテンポラリーミュージックの指導をしていただいたりと、私が想像していた以上の恵みに溢れた大学生活を送っています。

私がいくら計画したって、打ち砕かれます。なぜなら神様は私の全てをご存知で、私の計画以上の計画を持って、私の想像をはるかに超えた最高の道を用意してくださっているからです。時に理解できないようなことも起こるでしょう。しかし聖書のエレミヤ書29章11節には「わたしはあなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」とあります。神様は私たちに将来と希望を与えると約束してくださっています。そのことをおぼえつつ、この先の人生を歩んでいきたいと思います。

最後に今日の聖書箇所をお読みします。

イザヤ書55章8節〜9節

「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なりわたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。 天が地を高く超えているようにわたしの道は、あなたたちの道をわたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている。」

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